宗教改革の4大綱領 ー マルチン・ルター(2)
キュンクのルター論(神学講座2020)の続きである。
Ⅴ 宗教改革の4大綱領文書
1520年に宗教改革の綱領的文書が発表される。ルター自身には独自の神学大系を構築する力はなかったようだが、状況に応じて目標を実現する実行力を持っていたという。キュンクは、宗教改革の綱領的位置を占めるルターの4文書を挙げる(1)。
1 第一の文書 説教『よきわざについて』
これは、教会向けのドイツ語の文書。信仰とわざの関係が問われ、信仰こそキリスト教的実存の基礎だと述べる。
2 第二の文書 『キリスト教の改善について ドイツ国民のキリスト者貴族に与う』
これはドイツ語による教会改革への情熱的呼びかけ。教皇制が教会改革を妨げているとして激しい教皇制批判を展開する。同時に教会的・世俗的生活一般の改革が求められ、「万人祭司制」が登場する。
3 第三の文書 『教会のバビロン捕囚』
これは神学者むけでラテン語で書かれている。サクラメント(秘跡)論で、ルターによるおそらく唯一の体系的な神学書だという。教会はサクラメントは7つと言ってきたが(2)、洗礼と聖餐(聖体)だけがイエス・キリストが制定したものであり、他は教会の慣習にすぎないとした。この主張はローマの教会法の基盤を揺るがし、破壊する過激な主張だった。
4 第四の書 『キリスト者の自由について』
これはルターの義認論の総括だ。第一の文書をさらに発展させたものという。日本でも良く読まれる文書だ。第一コリント9:19の説明だ(3)。人間は、内的には(信仰では)すべてのものの上に立つ自由な主人であり、外的には(わざにおいては)すべてのものに奉仕する僕であるとした。
(表紙)

Ⅵ 宗教改革の根本動機
ルターは巨大な政治的起爆力を持った人だったが、本当は信仰の人であった。ルターを、単なる教会批判者だとか、贖宥状批判をしただけだとか、教皇制からの政治的解放を求めただけだとか理解してはならない。それは誤った理解だ。ルターを宗教改革へ突き動かしたのは、「教会がイエス・キリストの福音へと立ち還ること」(213頁)であった。ルターを中世的パラダイムから区別するのは以下の二点である。
1 「聖書のみ」 sola scriptura :何世紀も続いてきた伝統・法・権威に対して、ルターは「聖書の優位」を対置する
2 「キリストのみ」 solus Christus :神と人間の間を媒介する聖人や聖職者たちに対して、ルターは「キリストの優位」を対置する
3 「信仰のみ」 sola fide :人間の努力である「わざ」や「功徳」に対して、ルターは「恩寵と信仰の優位」を対置する
これらの義認論の主張は「教会改革への公開のアッピール」(213頁)であって、なにか新しい教理や教説を定式化することを意図していたわけではない。新しいゼクテを作るつもりがあったわけではないという。むしろ教会生活の刷新を意図していた。だがそれを神と人間の間に介在する教皇が妨げていた。ルターにすれば教皇はまるでキリストの位置を占めていた。
ルターはここに「教皇制の徹底的批判」を開始する。ただし、ルターが問題にしたのは、個々の教皇ではなく、教皇制という制度だった。制度としての方法や構造が福音に対立していると主張した。
ルターの初期の闘争は、やがて教皇や公会議の不可謬性問題に関する闘争にまで発展してしまった。キュンクはこれは「主要な責任はローマの側にある」と断定している(214頁)。ルターの悔悛と改革への呼びかけに、ローマもドイツ司教団も答えようとはしなかった。そこでは、聖ペテロ教会の建設とか、贖宥状とか、教皇庁の巨大な財政赤字などが問題だっただけではなく、「ローマは最終的には常に正しい」という「原理」が問題だった。こういう原理が支配していた。こうした中世的なローマ・カトリックのパラダイムすべてが問題だったのであり、それは今や危機に瀕していたのである。
1521年4月に若干25歳の神聖ローマ帝国皇帝カール5世は「ヴォルムス帝国議会」を開催し、やがて「ヴォルムス勅令」によってルターとその支持者を帝国から追放した。ルターの著作は焼却された。ザクセン選帝侯フリードリヒ3世(4)はルターをヴァルトブルク城 Wartburg に匿う。ルターはここでエラスムスのギリシャ語・ラテン語訳聖書から「新約聖書のドイツ語訳」を完成させる。これは高地ドイツ語(現在の標準ドイツ語に近いらしい)で書かれており、ルターの宗教改革のパラダイムは一気に新たな展開に入っていく。
Ⅶ 宗教改革のパラダイム
ルターの新しいパラダイム、宗教改革のパラダイムとはなにか。それは一言で言えば、「福音への回帰」だ。伝統的な教会と神学への抗議(プロテスト)の下に福音へ還って行くことだ。ルターによる福音の新しい理解、義認の新しい位置づけが、神学に新しい方向を与え、教会に新しい構造をもたらした。文字通り「パラダイム転換」だった(216頁)。キュンクはその特徴として以下の3点を指摘している。
①伝統的な概念(義認・恩寵・信仰・律法・福音など)が変化した。昔からのアリストテレス的概念(実体・偶有性・質料と形相・現実態と可能態など)が放棄された
②判断の伝統的な基準だった規範(聖書・公会議・勅令・理性・良心など)がずれを生じた
③形相・質料説に基づくサクラメント論などの理論、および、スコラ学の思弁的・演繹的方法が動揺をきたした
つまり、ルター神学の新しい単純さ、創造的な言葉の力(理論の持つ内的結びつき・根源的透明性・牧会的影響力)が当時の聖職者や信徒を魅了した。ルターはわかりやすかったのだ。また、活版印刷術、パンフレットの流布、ドイツ語の賛美歌などがルターの教説の普及に貢献した。
神学や教会の諸問題を解くための意味解釈のモデルが転換された。「以前には見えなかった多くのものが今は知覚される」(217頁)ようになる。万人司祭制、義認論など、「聖書的・キリスト中心的な新しい神学概念」へと神学全体を導いたという。
具体的には、ルターがパウロの義認論の使信を新たに発見したことが以下の新しい理解をもたらしたという。
①神の新しい理解: 抽象的な「それ自体としての神」(an sich)ではなく、「われわれのための神」(fuer uns)
②人間のあららしい理解: 信仰において、義人であり同時に罪人である人間
③教会の新しい理解: 官僚機構としての教会ではなく、万人祭司制を基礎とする信仰者の共同体としての教会
④サクラメントの新しい理解: 儀式としてのサクラメントではなく、キリストの約束と信仰のしるしとしてのサクラメント
やがて、「神学と教会の新しい宗教改革的な概念装置」が歴史的現実として出現してくる。1530年にアウクスブルク帝国議会で「アウクスブルク信仰告白」が人文主義者メランヒトンによって起草されるが、カトリック教会は拒否し、和解は失敗する。そしてついにプロテスタントに属するドイツの諸侯によって「シュマルカルデン同盟」が結成される。ここにルターの宗教改革と政治権力の結びつきが実現する。よかれ悪しかれ、ルターは政治と手を結んだのだ。
やがて1546-47年に皇帝派とプロテスタント派とのあいだにシュマルカルデン戦争が起こる。1555年のアウクスブルクの宗教和議で Cuius regio, eius religio の原則(領主・領民同一宗教の原則)が確認される。つまり、「地域が属するところの者に宗教も属する」(領主の宗教がその領土でおこなわれる、領民は領主の宗教に従わねばならない)という原則だ。ここには宗教の自由は存在しない。カトリックとプロテスタントの分裂が固定化される(5)。
こうして教会は、かって1054年に「東西に」分裂した後、500年後にここに「南北に」も分裂する。この世界史的事件は500年経った現在まで影響を残している。キュンクはこう問う。今日のアクチュアルな問いは、「両者はどうしたらついに再び共に集うことが出来るのだろうか。いかなる基準に従えば両者の統一は基礎づけられるのだろうか」。
どうしたらもう一度共に集うことができるのか。キュンクの問いは次回に回したい。
注
1 日本の世界史教科書では、第一の説教を除いて、「宗教改革の三大改革書」と呼ぶのが普通らしい。
2 カトリックでは、入信の秘跡(洗礼・堅信・聖体)、いやしの秘跡(ゆるし・病者の塗油)、交わりの秘跡(叙階・結婚)の七つ。特に入信の秘跡が土台となる。聖体は聖餐とも呼ばれる。キリストの神秘(過越の神秘)を祝うことは「典礼」(liturgy)と呼ばれ、教会の共同行為としての儀式全般を指す。秘跡(サクラメント)とはキリストの神秘をいま目に見える形で具体的に示す儀礼のことをさす。
考えてみると、カトリック教会はどうしてこれほどまで教会の共同体的性格を強調するのだろう。信仰の個人的性格はあまり強調されない。これが私の信仰だ、私はこう信じる、というような言明は教会内ではあまり聞かれない。よく聞かれるのは、どの神父様から洗礼を受けたか、どこで受けたか、という話だ。教会内にはプロテスタントから転じた人が多いと聞く。印象を聞いてみたいものだ。
3 「私は誰に対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。より多くの人を得るためです」(協会共同訳)
"For though I am free from all, I have made myself a servant to all, that I might win more of them."(ESV)
4 ザクセン選帝侯フリードリヒ3世(1463-1525)。ルターを保護し、プロテスタントを承認した。カール5世にしてみれば、フリードリヒ3世は自分の皇帝即位の恩人だから手が出せなかった。ローマ教皇もハプスブルク家に対抗するため手を拱くしか出来なかった。ザクセン公国はドイツ北部にあり、神聖ローマ帝国が解体するとザクセン王国となる。
5 ルター派はこうしてドイツに根を下ろし、ノルウエー・デンマーク・スウエーデンなど北欧諸国に拡大していく。
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